表札を出したくない人の表札「田中」さん

表札を出したくない人の表札「田中」さん

[ 表札を出したくない人の表札 「 TANAKA 」 【 田中 】 本物の真鍮で作ったサインプレート ]

「記憶の図書館」


ある静かな町に、田中さんという一風変わった男性が住んでいました。年齢は50歳前後で、眼鏡をかけた中肉中背の彼は、町の誰もが知るほど親しみやすい人物でしたが、なぜか彼のことを深く知る者はいませんでした。彼は長年、町の図書館で司書として働いており、いつも決まった時間に出勤し、決まった時間に帰宅していました。だが、田中さんの家は誰にも知られていないのです。

町の外れに住む小さな子供たちは、田中さんの家を探そうと何度か挑戦しましたが、誰一人として見つけることができませんでした。どれだけ後をつけても、田中さんは必ず途中で姿を消してしまうのです。不思議なことに、町の誰に聞いても、彼の家がどこにあるかを知る者はおらず、ただ「彼は町のどこかに住んでいるはずだ」という漠然とした答えしか返ってきませんでした。

ある日、図書館で働く若い女性、鈴木さんが田中さんに声をかけました。「田中さん、いつも帰りが遅いですね。どちらにお住まいなんですか?」

田中さんは一瞬驚いた顔をしましたが、すぐに柔らかい微笑みを浮かべ、「そんなに遠くない場所です」とだけ答えました。それ以上の質問には答えようとせず、そそくさと図書館を後にしました。

それ以来、鈴木さんは田中さんのことが気になって仕方がありませんでした。何か秘密があると感じた彼女は、ある夜、田中さんが図書館を出た後、彼の後をつけることに決めました。

夜の静かな町を田中さんはゆっくりと歩いていました。月明かりが彼の影を長く引き伸ばし、その姿はどこか幻のようでした。鈴木さんは慎重に距離を保ちながら、彼の後を追い続けました。しかし、町の境界に近づくと、田中さんは突然、古びた公園の入口で立ち止まりました。

公園は荒れ果て、誰も訪れることのない場所でした。田中さんは静かに振り返り、鈴木さんを見つめました。「ここまでです」と、彼は静かに言いました。

鈴木さんは驚いて、一歩後ずさりました。「ごめんなさい、ついてきてしまいました。でも、どうしてこんな場所に…?」

田中さんはしばらく黙っていましたが、やがて口を開きました。「ここが私の家です。ずっとここにいます。実は、私はこの町に住む人々の記憶の中にしか存在していないんです。」

鈴木さんは目を見開きました。「どういうことですか?」

田中さんは静かに微笑んで言いました。「私は実体のある人間ではありません。昔、この町に住んでいた者の記憶が、人々の意識の中で形を保っているだけなんです。この図書館で、私は本を守り、町の人々と触れ合うことで存在し続けています。しかし、誰にも私の家を見つけられないのは、私に本当の家など存在しないからです。」

鈴木さんはその言葉を理解しようとしましたが、次の瞬間、田中さんの姿がかすみ始め、やがて夜の闇に溶け込んで消えてしまいました。

それ以来、鈴木さんは田中さんの姿を再び見ることはありませんでした。図書館には彼がいた痕跡もなく、町の人々も次第に彼のことを忘れていきました。

しかし、鈴木さんだけは、田中さんが確かにそこにいたことを覚えていました。そして、時折、夜の町を歩いていると、遠くから田中さんの姿を見かけるような気がするのです。彼が町の記憶の中で、今も静かに存在し続けているのかもしれません。